鬼来迎は鬼舞とも呼ばれ、地獄を再現した劇で、仏教の因果応報の理法を説いた大変珍しい仏教劇である。
この由来は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代に遡る。薩摩の国の禅僧石屋が、衆生済度のため諸国を遊行の途中、虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂を仮寝の宿としたとき、妙西信女という十七歳の新霊が鬼どもに責められている様を見た。翌日、墓参に来た妙西の父・椎名安芸守と、妻・顔世と言葉をかわすことになったが、新霊は、この地の領主・安芸守の一人娘とわかった。請われるままに真夜中に見た地獄絵さながらの様子を話すと、安芸守は自分の悪行を悔い、娘の法名、妙西を広西と改め、彼女の墓堤を弔うために建久七年(1196年)仲夏、慈士山地蔵院広西寺を建立し、その開山となった。
ところが、その年の仲夏六日、虫生の里に突然雷雨が起こり、寺の庭に青・黒・赤・白の鬼面と、祖老母の面等が天降ってきた。不思議に思った石屋は、これを寺内にとどめておいた。
一方、当時鎌倉に居住していた運慶・湛慶・安阿弥の三人の彫刻師が、ある時偶然に、石屋と安芸守夫婦が亡き娘の卒塔婆をたてて、菩薩に済度されたという情景を夢に見て感動し、はるばる虫生の里を訪ねて石屋に逢った。石屋は三人にかつて辻堂で見た地獄の呵責のの様子と、それを救われた菩薩の大悲のありさまを詳しく話し、その姿を来世に残して、大衆の教化をはかりたい意向をのべたので、三人は早速、閻魔大王、倶生神、祖老母、黒鬼、赤鬼等の面象を彫刻し、出来上がった面をそれぞれ顔に当て、石屋もまた僧徒を集めて鬼に扮して、八月十六日に演じてみせた。そしてその後も、地獄の相・菩薩の威力を示す「鬼来迎」は、毎年八月十六日に行われるようになったといわれている。
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